|「飄々とした人」どんな人をイメージしますか?
「あの人、飄々とした人だよね」という評価は、誉め言葉?それとも悪口でしょうか。
悪いイメージとしては、マイペースすぎて何を考えているのかつかみどころがない、結果として信用できない。
周囲の人からは、ここぞという場面でも本気度が見えず、軽薄で空気が読めない人に見えるかも知れません。
でも、個人的には誉め言葉として捉えたい!と思うのです。
そのイメージとして、世間のしがらみや他人の目を気にしないで、自然体で生きている、更にプレッシャーに強く、失敗やトラブルにあっても、深刻にならず余裕さえ感じさせる・・。
正に、世間の評価を気にしない、人は人で自分は自分、約束を破られても「まぁ、そんなこともある」・・と、このご時世を生き抜いていくのに必要なキャラと思えるのですが・・。
但し、自分に対しての注意は必要になるでしょう。
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|自分に対しては飄々と生きることでリスクはある!
飄々とした生き方には、自己防衛の気持ちが隠れています。
真剣に取り組んだ結果の失敗や、他人の期待に応えられなかった時の不安を、本気を出さなかったからと逃げ口上として利用できる。
真剣さにはリスクが伴います。
真剣に向き合って、失敗した場合に評価が下がるのが怖いから、あえて軽やかにやり過ごす。
飄々とした態度には、過度な評価や批判を回避し、自分を守るための防衛的な戦略として期待できるのも確かです。
周囲から、「あの人はいつも飄々として、深刻な空気を和らげてくれる」という評価が次第にキャラクターとして作られてきます。
ここで注意が必要になります。
飄々とした生き方は、ある意味で「生きやすさ」を提供してくれますが、そのままだと失ってしまうものもあります。
真剣に関わったことで得られる経験や充実感、失敗して得た先の成長等は、飄々さで遠ざけてしまうことにもなるからです。
それでも今の世の中は、どうも熱意や熱血、真剣さは鬱陶しく扱われ、軽やかさが好まれる傾向にある様なので、飄々とした態度は選ばれ続けるでしょう。
しかし、飄々とした行動を続けることで、本心や素の自分、今まで築いてきた「本来の自分」を見失う危険もあるのです。
周囲には、飄々と見えても、自分とはしっかりと向き合うという「飄々とした人を気取る」のも悪くないと思うのです。
社会の平均に捉われない、他の人との違いを楽しむ、そんなこともあるさ!全てにおいてではなく、ポイントを絞った「飄々とした人」をお勧めしたいのですが・・如何でしょうか?!
|飄々とした人は世間の評価に騙されない!
マスコミを介して社会は、連日のようにいろいろな統計データーを発表しています。
例えば、年代別や会社別の年収平均値とか結婚年齢の平均は何歳?、年代別平均貯蓄額は?老後を豊かに生活するための資金の平均は?・・、他にも平均的な余命は等、どうでもいいような統計まで情報として流れています。
見方を変えれば、それだけ「平均値」を知りたがる人が多いということなのでしょう。
しかし、「平均値」はあくまでも「平均値」であり、自分が目指すべき生活レベルの指針にはならないことを知るべきです。
「平均」を意識し過ぎるということは、「周囲から人並み以上に見られることが、生活の目標に据える」ことと同然。
これは、あまりにも虚しい。
「自分の生き方に満足しています、それが世間の平均値かどうか知りません。平均を基準に生きたい訳ではないので!このまま行きます」と、周囲や世間を気にせず、自分の価値観に従った方が、よほど自由で楽しい人生を生きていけると思うのです。
平均的な生き方など元々無いのですから。
統計には、人々の考え方や消費行動を、社会の都合いい方向に煽るという一面があります。
そんな「統計数字のマジック」に騙されないで頂きたいと思うのです。
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|飄々と他の人との「違い」を楽しんでみる・・
人には少なかれ、子供の頃から染みついた「比較癖」があると言われています。
それも無理はありません。
ほとんどの人は、物心がついた頃から、テストの点数や足の速さ、どうすることも出来ない様な背丈の伸長さえ、周囲の子供達と比べられながら過ごしてきましたから。
理想は「誰かと何かを比べることはやめましょう」なのですが、それでも「気が付いたら、いつの間にか誰かと何かを比べている自分がいた」という人もいるでしょう。
その位、「自動思考」が強い場合は、比べた後自分自身に「優劣ではなくて違いなんだ。あの人のああいう部分は自分とは全く違う、実に面白い。」・・と。
そうなると、自分にも他人にはない部分があって、面白いと自分で気が付くようです。
みんなそれぞれに個性があって、それを生かすこと認め合うことが大切と思えるのです。
そこに気が付けば、優劣をつけて卑屈になることも、傲慢になることもなくなります。
違っていることを楽しんだり認め合うことは、思惑や計算されたものではなく、自然発生的に人間関係をよりよくする知恵のひとつなのですから。
|飄々としていると「約束なんて破られるためにある!」に行きつく
「約束を破られる」、大袈裟にいうと「裏切られる」ことには、大きくは二つのパターンがあるようです。
一つ目は、約束を破られるというそのままのこと。
期日や時間を約束したのに守られないことや、参加することや待ち合わせをドタキャンされる、という場合が該当します。
約束を守ると信じていた気持ちや信頼を裏切られる格好になります。
これは、人間関係が緊密で親しい関係にある程ガッカリ感や怒りモードが大きくなる様です。
二つ目は、過度に期待したことで、その通りの結末に至らなかったことによる裏切られた感覚になります。
こちらの方が、裏切られた感は強くなるかも知れません。
どちらにしても、「裏切られた」と感じるかどうかは、信じたこちら側の問題になるでしょう。
約束を破った、或いは裏切った側にしてみれば、「約束はしたが、できなかったから、しょうがない」「ドタキャンも急に都合が悪くなったんだから、しょうがない」「勝手に期待しておいて・・、できない事はできない」・・というレベルの捉え方かも。
裏切った、約束を破った側の理屈として、根本にはたいしたことではない!と思っていることの方が多い様です。
言い古された言葉ですが、守れないかも知れない不安があるからこそ「約束」を取り交わすのであり、最初から破られるリスクを前提にしているということになります。
歴史を紐解いてみても、書面で交わした同盟さえもいとも簡単に破られています。
ここは、「約束は破られて当たり前」くらいの気持ちでいた方が、気持ちを乱されずに済むというものです。
|生きていれば「そんなこともあるさ」が気持ちを楽にする特効薬
生きて生活していると、予期しないいろいろな事に出くわします。
しかし、一度経験すると次は予期しない出来事ではなく、経験した出来事に変わります。
この経験の積み重ねが、「まあ、こんなこともあるさ」と余裕を持って受け入れることに繋がっていくのです。
昔からよく「年齢を重ねると、人間が円くなる」と言われていますが、これも様々な経験を積んだ結果、「こんなこともあるさ」と受け入れることが増えたことによるものです。
仕事においても、いろいろな経験を積むことで、予期しない事態に対しても応用を効かせた判断が可能になるのです。
少し気取っていうと、「人生を生きるということは、シナリオのない芝居を演じるようなもの」で、「予期しない」ことの連続だからこそ、自由にアドリブを繰り出して演じる面白さがあるのではないでしょうか!(・・なんてな。)
ですから、何か予期しない困ったことが起きても、「まぁ、こんなこともあるさ」とつぶやくと、気持ちが楽になる・・(経験上、結構これで乗りきれました)。